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岡倉天心を師と仰ぎ、明治・大正・昭和の90年を生きた大観は「一切の藝術は無窮を趁ふの姿に他ならず-芸術は感情を主とす-世界最高の情趣を顕現するにあり」を座右の銘としました。明治維新で水戸藩士の身分を失った父とともに上京し、湯島小学校、東京府中学校(現日比谷高校)を卒業しました。明治18年、東京大学予備門とその付属英語専修科のかけもち受験が内規に触れ不合格となったため、私立の東京英語学校に入学し4年間修学します。ここで学んだ語学力は後年の画家・大観を大いに助けることとなります。明治22年、東京美術学校(現東京藝術大学)一期生として入学し、卒業後は東京美術学校助教授となります。明治31年、校長を辞職した天心らと行動を共にし、谷中の日本美術院創立に参画します。今日では評価の高い「朦朧体」ですが、当初は従前の日本画とは作風を異にしていたため、あいまい・ぼんやりとしていると揶揄され世間には認められませんでした。そこで、大観は春草と共に海外へ渡ります。明治36年にインドのカルカッタ、明治37年から38年にかけては、アメリカのニューヨーク、ボストン、ロンドン、ベルリン、パリでも展覧会を開き、高い評価を受けることとなります。帰国後は、茨城の五浦に移転しますが、1年半後東京に戻り、明治41年より下谷区茅町(現台東区横山大観記念館所在地)に移住します。海外での評判もあり、このころから日本でもその画風が認められるようになります。以後、亡くなるまでこの地で精力的に作画に取り組み、昭和5年、ローマでの日本美術展では使節として赴くなど、日本美術界を牽引し活躍しました。昭和12年に第一回文化勲章を受章しています。昭和33年にこの地で亡くなりました。大観の永年に渡る日本美術発展への貢献により正三位に叙せられ、勲一等旭日大綬章を贈られました。
代表作は『生々流転』『霊峰飛鶴』『夜桜』『或る日の太平洋』など多数あります。
横山大観をこよなく愛し、大観が遺した邸宅や作品・コレクションなどを貴重な文化財として、保存・維持している横山大観記念館の活動をサポ-トしていきたいという思いの人々により、メンバーズ・クラブ事務局を設立することになりました。是非、会員になって皆で記念館の運営のサポートをよろしくお願いします。