969月18日。水戸藩士酒井捨彦の長男として生まれる。幼名は秀松、長じて秀麿と改め、のちに横山家を継ぐ。東京美術学校(現東京藝術大学)第1期生として卒業。京都市美術工芸学校の教諭に就任。帝室博物館からの依頼で京都、奈良で古画の模写を行う。東京美術学校助教授に任ぜられ、図案科を受け持つ。大観の雅号を用いるようになる。東京美術学校事件が起こり、非職を命じられた岡倉天心に殉じ、連袂辞職。天心とともに日本美術院を設立。日本画の樹立を志し、没線描法を用いるが、朦朧体と揶揄される。1月、春草とインドに向かう。7月に帰国。明治元年明治26年明治29年明治31年明治33年明治36年明治37〜38年アメリカとヨーロッパ歴訪。春草とともにニューヨーク、ワシントン、ロンドンで展覧会を開催。明治39年明治41年日本美術院の五浦移転により、天心らと同地に移住。五浦の住居が全焼したため下谷区茅町2丁目19番の家を借り移住。第3回文部省美術展覧会に出世作となった《流燈》出品。本作品は文部省の買上げとなる。五浦の新居が竣成したが戻らず、茅町を本居と定める。天心のボストン移住より、日本美術院は事実上の解散状態となる。日本美術院を下谷区谷中にて再興。下村観山らと共に同人となる。ノーベル文学賞受賞者であるタゴールが来日し、大観邸に滞在。貸借していた茅町2丁目19番の土地300坪を購入。新邸宅の建築に着手し翌大正8年に秋に完成。大観邸2階画室で描いた《生々流転》を再興第10回院展に出品(重要文化財・国立東京近代美術館蔵)。9月1日大震災により大観邸も被災するが、倒壊、焼失はまぬがれる。その修復の際に客間鉦鼓洞を造営。ポール・クローデルフランス大使夫妻を自宅に招待。隣接する茅町2丁目18番2号の120坪を購入。この一角にあった茶室を鉦鼓洞脇に移設。庭を竹林から松林に改変。久邇宮同妃両殿下が大観邸を訪問。東伏見宮妃殿下、若宮殿下が大観邸を訪問。ローマ開催日本美術展(イタリア政府主催)のため、美術使節としてイタリアに赴く。フランス大統領よりレジオン・ドヌール勲章シュバリエを受章。不動明王立像が大塚稔より贈られる。東京大空襲で邸宅が焼失。再建する邸宅の上棟式を執り行う。完成した新居に疎開先の熱海から移転。庭に山桜5株を植栽。2月26日自宅にて逝去。都立谷中霊園に埋葬される。9月1日横山大観記念館開館。2月9日横山大観旧宅及び庭園が国の史跡及び名勝に指定される。明治42年明治43年大正3年大正5年大正7年大正12年大正13年大正15年昭和2年昭和3年昭和5年昭和12年昭和20年昭和29年昭和32年昭和33年昭和51年平成29年横山大観 略歴
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